マンガ、アニメ、映画の世界には、読者や視聴者が「お願いだからもう幸せになってくれ」と涙せずにはいられない、あまりにも過酷な運命を背負ったキャラクターたちが存在する。
鬼滅の刃における猗窩座も、その一人として仲間入りさせて問題がないほど、過酷な18年の人生を送ってきた。
猗窩座の過去エピソードは確かに「かわいそう」ではあるが、だからといって鬼となり、人を食い殺しても良いということにはならない。
猗窩座のたどってきた過酷な人生を鑑みつつ、かわいそうな男のかわいそうな人生には救いがあるのか、許されるのかについて考えていきたいと思う。
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
無限城編での猗窩座との死闘をもう一度、その目に焼き付けよう!
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猗窩座が「かわいそう」であることに間違いはない
我々読者は、猗窩座の人生において15歳頃〜18歳までの3年間しか、その詳細を知らない。
だが、その3年という短い間でも、病の父親を看病しながらのスリ稼業、犯罪者の入れ墨、父親の自死と所払い、妻と義父の毒殺、無惨と出会い鬼になると「不幸な出来事のオンパレード」という人生を送っている。
その詳細は、以下の記事「猗窩座の過去まとめ。苦難の狛治時代から慶蔵・恋雪との悲劇、煉獄杏寿郎との死闘」にまとめてあるので、そちらを御覧いただきたい。
こういった不幸な出来事の多くが、「狛治=猗窩座の人間時代に責任がない」というのが、「かわいそう」だなと思わせる要因になっている。
もちろん、父親の薬を買うためとはいえ、人の財布を盗むことは立派な犯罪であり、許されないことだ。
だが、動機が「父の薬のため」と「遊ぶ金が欲しかったから」では、情状酌量の余地がまったく変わってくる。
妻と義父を毒殺した犯人たちを撲殺して回るのは、確かに殺人の罪ではあるが、「正当な仇討ち」が許されていた江戸時代の倫理規範に基づけば、「やりすぎだが気持ちは分かる」という考え方も、当然あってしかるべきだと思う。
だからといって、それを実行してしまうのが「狛治の悪い癖(杉下右京風)」なのだが、彼を止めることができる大人が周囲にいなかった(素山慶蔵、なぜ死んだ!)というのも、ある意味「かわいそう」だと言えよう。
ベルセルク・ガッツに見る「絶望に抗う不屈の精神力」
ファンタジーマンガ「ベルセルク」の主人公・ガッツは、「世界一不幸な主人公」と言われても過言ではないほど、過酷な運命を背負って生きてきた。
絞首刑にされた母親の死体から生まれ落ち、養父からは虐待を受け、親友に裏切られて恐ろしい地獄を見る。
自分自身は、片目と片腕を失い、愛する人は精神崩壊で正気を失ってしまう。
しかも、呪いを受け、常に悪霊に命を狙われ続けるという絶望的な人生。
それでもガッツは、自らの足で立ち上がり、希望を探して旅を続ける。
言わばガッツは「鬼になることを自らの精神力で拒絶できる人間」であると言えるだろう。
彼のような「絶望に立ち向かう強靱な心」が狛治にあったならば、猗窩座が生まれることもなかったかもしれない。
猗窩座はかわいそうでも、煉獄杏寿郎は浮かばれない
猗窩座は確かにかわいそうだ。
あれだけ過酷な経験をしていれば、絶望して自暴自棄になり、鬼になってしまったとしても、彼を責められない。
ただ、狛治が鬼になったことで、苦しんだり、悲しんだ人々が大勢いることもまた間違いない。
彼らもまた、かわいそうではないか。
猗窩座によって殺された人々は、猗窩座を恨むだろう、憎むだろう。
狛治がそうしたように、愛する人を殺されれば復讐をしたいと思うかもしれない。
猗窩座は、自らが経験した「絶望」を他の誰かにも強いていることに気がついていない。
その「人としての心の喪失」こそが、「鬼になる」ということの本質ではないだろうか。
本物の鬼には、「他者をいたわる心」はない。
その意味で、炭治郎や他の隊士、人間たちを「守る」という行動をとる禰豆子は、煉獄杏寿郎の言葉通り「鬼ではない」と信じる根拠を持っているとも言える。
猗窩座が滅しても、その罪は消えず
猗窩座が鬼にとして重ねてきた罪は、そうそう消せるものではない。
恋雪と2人で、地獄をさまよい、重罪を償っていくほかないだろう。
炎柱・煉獄杏寿郎も猗窩座に殺害された被害者の一人である。
ただ、煉獄は鬼殺隊の隊士であり、柱である。
鬼と戦って命を落とすことは珍しいことではなく、本人も述べている通り、業務上仕方のない「使命と責任」でもある。
煉獄杏寿郎自身も、猗窩座に負けず劣らず「素直で良いやつ」なのが大きな問題だ。
なぜ、彼らが戦うことになってしまったのか、その運命のイタズラこそ呪いたい。
煉獄の訃報を聴いた多くの柱が、哀しみ、哀悼の意を示していた。
煉獄杏寿郎は人格者として、鬼殺隊士にも認められた男だったのだろう。
どうにも周囲と馴染めない冨岡義勇とは確かに扱いが違いそうだ。
猗窩座と煉獄は、生まれた家と身分さえ違えど、共に家族を愛し、最愛の人を亡くし、悲しみを乗り越えてきた強い者たちだ。
その片方が鬼となり、片方は鬼狩りとなり、相まみえてしまったという事件こそ、最大の悲劇=かわいそうなことだったのかも知れない。
マンガやアニメ、映画に登場する過酷な絶望を背負わされたキャラクター列伝
金木 研(東京喰種)普通に生きたかっただけの大学生
通の大学生でしたが、人を喰らう怪人「喰種」の臓器を移植され、半喰種に変貌。
これまでの平穏な日常を失い、過酷な試練に打ちのめされながら、さらなる壮絶な悲劇に巻き込まれていく。
フォスフォフィライト(宝石の国)バラバラに壊れていく不老不死
不死の「宝石」として生まれながらも落ちこぼれだったため、様々な身体の部位を失っていく。
努力虚しく、仲間たちとのすれ違いから孤立し、永遠の命を持つがゆえの凄惨な精神的拷問を受け続ける。
間桐 桜(Fate/stay night )家に壊された人生
魔術師の家系に生まれたが容姿に出され、そこで凄惨な肉体改造を施されるという地獄のような日々を送る。
家という閉鎖され、逃げることができない環境が「絶望的な境遇」になりえることを体現した悲劇のヒロイン。
セルマ・ジェスコヴァ(ダンサー・イン・ザ・ダーク)
チェコからアメリカにやってきた移民のシングルマザー。遺伝性の目の病気を抱えながら必死に働き、同じ病気を持つ息子の治療費を稼ぐが、信頼する人に裏切られ罪を犯す。
あなたは、この悲惨な物語を最後まで見続けることができるか?
できればもう見たくない映画は「火垂るの墓」
個人的に、もう見たくないと思うのは「火垂るの墓」である。
映画としてはもちろん名作で、素晴らしい作品ではあるけれど、こんなにも心かきむしられ、たまりにたまった悲しみを晴らす機会のない映画は、正直もう見たくない。
猗窩座しかり、その他のキャラクターしかり。
共通するのは、「ただ普通に生きたい、誰かを助けたい、誰かに愛されたい」というささやかな願いを持っているひだけの人々が、理不尽な悪意や環境によって歪められ、貶められてしまうことだ。
彼らの多くは「悪人」ではない。
運命や環境のさじ加減によって、その純粋な想いが踏みにじられている様子こそ、我々見るものに「絶望」を感じさせるのだろう。
