猗窩座が鬼になった理由は、人間として生きることに対する「絶望と喪失感」であることは明白だ。
鬼舞辻無惨との遭遇は、まったくの偶然でしかなく(それをまた運命と呼ぶのかもしれないが)、鬼になる気があったのかといわれれば、そんなものはなかっただろう。
「流れ」で鬼となった猗窩座にとって、鬼として生きた長い年月の意味とは何だったのだろうか?
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
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猗窩座が鬼になった理由①絶望
人間の悪意に叩きのめされた末の絶望
人間誰しも、生きていれば楽しいことばかり起こらない。
辛いこともあれば、悲しいこともある。
笑うこともあれば、怒ることもある。
そういった浮き沈みの中で、なんとかかんとか生き抜いていくのが、一般的な人生なのだ。
猗窩座にとって、狛治時代の人生は苦難の連続だった。
病の父を巣食うためにスリを働き犯罪者となり。
父の自死によって街を追われ、暴れていたところを素山慶蔵に叩きのめされる。
「流れ」でやっかいになることになった素山の家で、仕事を与えられ、門下生という身分を与えられ、運命の人である恋雪と出逢った。
病弱だった恋雪は狛治のおかげで回復し、2人はめでたく夫婦になった。
ここまでは、完全なるシンデレラストーリーである。
「狛治良かったなあ、いっぱい奢るよ」と食事にでも誘いたくなる順風満帆な人生だ。
若い時に多少苦労したとしても、その後の人生が幸せなら、御の字だろう。
狛治は恋雪とともに、慎ましくも幸せな人生を送るはず「だった」。
そこから続くはずだった明るい未来は、一人の人間のどす黒い悪意によって引き裂かれる。
自分の留守中に、井戸に毒を盛られて死んだ最愛の妻と義父。
彼は復讐によって、犯人含む60余名を殺害し、鬼となった。
「流れ」で行動してしまう狛治の悪癖
この顛末において、狛治に落ち度があったかといえば、何もないと断言できる。
悪いのはすべて、嫉妬に狂って凶行に走った犯人である。
素山慶蔵がもう少し、隣接道場に対して適切な態度を示していればと思わざるを得ないが、妻を娘の介護疲れで入水自殺させてしまう男に、そういった気遣いは難しかったかもしれない。
狛治は、どうにもならない「圧倒的な人間の悪意」にさらされ、現世で生きることに絶望した。
それでも死をすぐに選べなかったのは、生来の性格、そして父の自死というトラウマがあったからかもしれない。
バットマンシリーズのスピンオフとして知られる映画「ジョーカー」に登場するアーサー・フレックも、人々の悪意に翻弄され、闇堕ちを経験した者の一人だ。
ゴッサム・シティの片隅で、病気に苦しみながら、人々を笑わせ、楽しませるコメディアンを目指していた彼は、社会の冷酷さと人間の悪意に徹底的に叩きのめされ、狂気の道化師「ジョーカー」へと変貌する。
彼は「自分の人生は悲劇ではなく、喜劇だ」と悟り、自ら狂気の道へと一歩を踏み出すのである。
この自発性が、猗窩座との違いだと言えるだろう。
鬼舞辻無惨と出逢った際、猗窩座は少なくとも「積極的に鬼になり、永遠の生を貪ろう」などとは思っていなかった。
彼の中にあったのは、
「もうどうでもいい…全て」
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という絶望の感情のみである。
ここでも猗窩座は「流れ」に任せて、自分の進退を決めてしまっている。
そう猗窩座は、その場の雰囲気や状況に「流されて行動する」ことが非常に多いのだ。
金が必要になり「流れ」でスリを行い
父親が死んでしまい、追放された「流れ」で暴れ
素山慶蔵に拾われた「流れ」で道場に住み着き、恋雪の看病をし、
恋雪に好かれた「流れ」で結婚を決めた。
守るべき者を守れず、その流れで犯人を惨殺。
その後、無惨に出逢った「流れ」で鬼となった。
そこには「俺はこうする、こう生きる」という主体性が感じられない。
すべては「流れ」、運命に翻弄されるまま、ゆらゆらと流されていった結果としての悲劇なのである。
猗窩座が鬼になった理由②喪失感
猗窩座が鬼になったのは、その場の「流れ」であって、自らの強い意思ではない。
猗窩座の中には
「ああ、恋雪も慶蔵もみんな死んじまったし、結構殺しちまったし。このまま人間やってても仕方ねえから鬼にでもなるか。鬼になれば、死ぬこともねえし、ずっと暴れていられるんだってさ。まあ、女は食わねえようにして、いっちょ戦ってみるか。オラ、わくわくすっぞ!」
といった感情は皆無だった。
彼は、「これからの人生自体がどうでも良い」状況だった。
つまり、「鬼になることと死ぬこと」は、ほぼ同義であったと考えられる。
猗窩座は、「狛治であって狛治でない」。
全く別の人格、別の人間と考えた方が、納得がいく。
ただ、猗窩座の中には確かに恋雪への想いや人間時代の経験が息づいているため、我々第三者が猗窩座と狛治をまったく分けて論じることは難しいのである。
喪失感は、時に、人間をより強烈な悪の道に引き入れる力になる
例えば、ワンピースに登場する海賊ドンキホーテ・ドフラミンゴは、特権階級の生まれだが父親の方針で「一般人」となり、そこで人間の悪意によって地獄を見る。
その経験が、彼を冷酷非道な悪のカリスマとして、成り上がらせてしまった。
機動戦士ガンダムSEED DESTINYに登場するシン・アスカは、目の前で家族を惨殺され、「大切な人を守るための力」を手に入れるためにガンダムのパイロットになる。
しかし、自分で望んで進んだ戦争の世界で、再び大切な人を失い、過激な妄想に囚われていく。
彼らは、「失ったものの大きさに心が耐えきれず、復讐や極端な敵対思想にすがらざるを得ない」という心理状態に追い込まれ、闇に堕ちていった。
猗窩座の場合、こういった「喪失感をスイッチとした破壊衝動」は、隣接道場での惨殺事件ということになるのだが、その感情が長く続かず、復讐を終えた時点で沈静化している。
多くの闇堕ちキャラクターは、復讐の火種がより広い世界に向けられ、手のつけられない状況になるのだが、猗窩座の場合は、そのどす黒い感情が不特定多数にひろがっていくことがなかった。
猗窩座の心にあったのは「大切な人を失ってしまった喪失感と後悔」それだけだったのだろう。
猗窩座の中に「鬼になった理由」はない。
このように、猗窩座本人に聞いても「鬼になった理由」を明確に答えることはできないだろう。
「なんとなく流れで?」そう答えるのが関の山だ。
もし狛治が鬼舞辻無惨に出逢っていなかったら
ここからは、完全に私の妄想である。
もし狛治が、大量殺害事件の後、鬼舞辻無惨に出会わなかったらどうなっていたのか。
自殺をするだろうか?
私はそうは思えない。
父の自死に対して理解がなかったように、「苦しいから、もう生きていたくないから死ぬ」という選択肢は狛治の中にないように思う。
彼にとって「もうどうでも良い」状態は、「生きていようが死んでいようがどうでも良い」ということだろう。
ならば「積極的に生きることも死ぬこともしない」と考えるのが妥当だ。
では、逃げる?
それも考えづらい。
逃走というのは、自分が置かれている不利な状況をなんとか打開したいという「希望」があるからこその選択である。
血まみれの拳でとぼとぼと歩く狛治の心に「希望の灯」は灯っていない。
おそらく彼は「何も考えていない、考えられない」状況にあるはずだ。
彼が積極的に逃げるという行動をするとは考えられない。
私がもっとも可能性が高いと思うのは、「大人しく捕縛される」である。
夜が明け、事件が明るみになる。
奉行所が動き、血まみれで立ち尽くす狛治を発見、捕縛。
その後は、しかるべき裁きが行われ、罪状が決まる。
狛治の凶行が認定されれば、おそらく死罪とされただろう。
江戸時代でも、複数人を殺害するような大量殺人を行った場合、原則として極めて重い死刑である磔(はりつけ)や獄門(ごくもん)に処されたという記録がある。
大人しく捕まり、裁判で恨み言の一つも言わず、黙って処刑される狛治の姿が、想像できる。
もしこのような未来が訪れていたら、猗窩座は誕生せず、たくさんの人々、そして煉獄杏寿郎も殺害されることはなかった。
ただ、狛治の魂が救われたかどうかは分からない。
猗窩座という鬼を経て、炭治郎によって首を斬られ、愛する恋雪に「おかえり」といってもらって塵と消えた狛治。
ただ死刑になるのではなく、その人生に後悔のない形ですべてを追われたことは、彼の人生において最も喜ぶべき慶事だったと言えるだろう。
