猗窩座は、無限城における炭治郎・冨岡義勇との決戦において、炭治郎のヒノカミ神楽により首を斬られる。
自らの過去が走馬灯のように浮かび上がる中で、鬼舞辻無惨の呪いに精神を蝕まれながら、最後の最後で必殺剣の矛先を炭治郎たちではなく、「自分自身」に向けて、自死するという道を選ぶ。
その際、猗窩座は確かに「笑った」のである。
炭治郎いわく「感謝の匂いがした」というその笑顔には、どんな意味や理由が隠されていたのかを考えてみたいと思う。
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
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猗窩座、最後の笑顔を「倫理学や哲学の観点」から考える。
猗窩座の「死に際の笑み」をどうやって介錯すれば良いのか、まずは先人の知恵を借りていこう。
ニーチェが提唱する「運命愛」と「笑い」の関係
哲学者フリードリヒ・ニーチェは、苦悩に満ちた人生をも肯定し、「これこそが人生か!さらばもう一度!」と言ってのけられる状況について「運命愛(Amor Fati)」であると定義した。
つまり、自分の運命を受け入れる覚悟ということだろう。
そして「笑い」とは、一般社会に当たり前にある道徳感や思い通りにならない運命を打ち破る力を持っているのだとも言っている。
猗窩座は「至高の強さを求める」という呪縛に縛られていた。
人間時代の過ちから修羅の道を選び、100年以上の時間を鬼として無益な殺生に明け暮れていたのだ。
炭治郎の一撃により過去のすべてを思い出した猗窩座は、その人生の最後に自らの醜態を認め、炭治郎の技の素晴らしさを認め、自らの敗北を認めた。
それこそ、ようやく「狛治という本来の人間性」を取り戻した瞬間であり、自らの生と死を全肯定する、すべての運命を認め受け入れたことを示す「笑顔」であったと考えられる。
ストア派の追求した内面の平穏(アパテイア)と「自己決定」
エピクテトスやマルクス・アウレリウスといった哲学者に代表されるストア派哲学では、「自分の力ではどうにもできない外的な要因=死や敗北」に振り回されることなく、「内面の心の平穏=アパテイア」を保つことを重視している。
ストア派では、自らの意志で生を終えること=自死は、人間としての尊厳を守るために必要な「究極的な自由の行使」と考えられることがある。
猗窩座の場合、炭治郎に首を斬られた後、一度は再生し、もう一度闘おうという意思を示している。
しかし、最終的に、炭治郎たちに向けられるはずだった攻撃を、反転して自らの体に打ち込むことになる。
これは鬼としての本能を、猗窩座が本来持っていた人間としての理性が上回り、「自らの意志で、自らの正しくない人生に幕を引く」という道徳的勝利を勝ち得た瞬間だと言えるだろう。
猗窩座が無惨の呪いという支配から解放され、本当の自由を得た。
その開放感から生じた笑顔であるとも言える。
スピノザの「能動的な喜び」
ベネディクト・ド・スピノザは、人間の感情を「受動」と「能動」という二つの種類に分けて考えた。
人間が物事の本質を理解できた瞬間に、怒りや憎しみ、悲しみといった受動的な感情は消え去り、その代わりとして「能動的で知的な喜び」が湧き上がってくるのだという。
猗窩座は、常に「至高の強さ」を求めていたが、「なぜそれを求めるのか」という真の理由を忘却していた。
実際には、「弱い者を守りたい」という狛治時代の感情が元になってはいるのだが、慶蔵や恋雪との記憶が蘇ったことで、自分が何のために行動していたのかという源泉を正しく「理解」することができたと考えられる。
記憶の回復により、それまで鬼としてもっていた怒りや憎しみといった負の感情が消え、狛治が本来持っていた清い魂を取り戻した。
その心の充足感が「笑顔」として溢れ出したということになる。
仏教における慈悲の微笑=アルカイックスマイル
東洋哲学や仏教の観点からすると、笑みは、「様々な執着やしがらみ」から解き放たれた状態を指すことが多い。
鬼となった猗窩座は「強さへの渇望(貪)」、「弱者への怒り(瞋)」、「真実の忘却(癡)」という恐ろしい三毒に精神を支配されている状態にあった。
記憶が戻り、愛妻である恋雪の魂に触れ、会話をすることで、そういった鬼としての生への執着がなくなり、一気に心が晴れ渡る。
そこで猗窩座は「鬼という修羅の道」から解放され、やっと「人間」へと戻ることができた。
仏像が浮かべる「アルカイック・スマイル」は、すべてを許し、そして許されたことによる「安寧の微笑」と言われる。
鬼として、人として背負ってきた荷物をすべて下ろし、「ほっとした」というのが、猗窩座の偽らざる心境だったのだろう。
猗窩座が最後に浮かべた笑顔は「自己の開放」に対する喜び
つまり猗窩座は「成仏した」ということになるのだろう。
鬼となった猗窩座は、現世への恨みと無念を持った地縛霊のような存在だ。
「永遠の命があればいつまでも闘い続けられる」とは言うものの、その内面に生への執着はない。
猗窩座の最後の笑顔には、単なる「敗北の受容」を超えた感情があるように思う。
もう「至高の強さ」を求めなくて良いという安堵、やっと終わりを迎えられるという充足感。
そうだ俺が殺したかったのは
鬼滅の刃18巻・第156話「ありがとう」
という猗窩座最後の独白。
このあとに続くのは「そうだ俺が殺したかったのは、守るべきものを守れなかった弱い自分だ」という言葉ではないかと推測できる。
猗窩座の行動は、明らかに「自死」だ。
放っておけば自分の意思とは関係なく、無惨の呪いによって再び鬼として闘いに明け暮れてしまう自分の運命を強制的に終わらせるための最終手段。
笑みを浮かべた猗窩座の視線は、やはり炭治郎に向いている。
炭治郎が感じた「感謝の匂い」というのは、当然「鬼としての自分にトドメを刺してくれた炭治郎に向けられた感情」と理解して間違いないだろう。
鬼としての無益な半生を終わらせる覚悟を決めた猗窩座は、それに気づかせてくれた、最後に至高の強さを見せて、自分を目覚めさせてくれた炭治郎への感謝。
鬼滅の刃18巻・第156話の「ありがとう」というタイトルは、恋雪から猗窩座への感謝であると同時に、猗窩座から炭治郎への感謝という意味合いも込められているのかもしれない。
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