猗窩座は、おしゃべりが大好きな鬼である。
それが己の首を狙っている鬼殺隊だろうと、至高の領域に近い力を持った炎柱であろうと、友達のように話しかける。
本来、猗窩座の元となった狛治自身は、口数の多くない寡黙なイメージであった。
「よくしゃべる猗窩座」は、むしろ彼の師匠である素山慶蔵と類似点が多い。
初対面の相手であろうと、からからと笑い、話しかけ、拳での対話を持ちかける。
その明るい語り口と手の早さは、師匠譲り(記憶はなくしているが、慶蔵の影響力が強く残っている)状態であると考えられる。
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
無限城編での猗窩座との死闘をもう一度、その目に焼き付けよう!
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猗窩座のセリフ・名言が示す「他者との関係性の断絶」という絶望
鬼になることを勧める猗窩座の気持ち
「お前も鬼にならないか?」
<出展>吾峠呼世晴/鬼滅の刃8巻・第63話「猗窩座」
無限列車編で、煉獄杏寿郎と対峙してすぐに発したセリフである。
これにはさすがに変わり者の杏寿郎も面食らっていた。
至高の強さを求めて鍛錬を続ける猗窩座にとって、「永遠の命と老いることのない肉体」は、とても都合の良い状況である。
弱い者には唾棄し、強い者には自分と同じようにさらなる強さを得るため高みを目指すよう諭す。
これが猗窩座の基本的な行動原理であり、すべての価値基準は「強いかどうか」で判断される。
無限城編では、冨岡義勇に対しても同じセリフを吐いているが、不思議なことに炭治郎は勧誘をしていない。
炭治郎は、無限列車編から無限城編に至るまでの過程で経験と鍛錬を積み重ね、柱と同等の剣技・能力を有するまでに成長した。
しかし、猗窩座に関しては、どうしても炭治郎に対する「嫌悪感」が先んじ、「鬼にする」のではなく「殺す」ことを優先してしまう傾向にある。
これについては後述する通り、「炭治郎と素山慶蔵を重ね合わせている」点に理由があるのではないかと思われる。
人間という圧倒的弱者に対する嫌悪感
「どう足掻いても、人間では鬼に勝てない」
<出展>吾峠呼世晴/鬼滅の刃8巻・第63話「猗窩座」
人間という存在に対する憎悪・嫌悪感を感じる。
狛治時代に、実父を自殺で亡くす、慶蔵、恋雪を人間による理不尽な扱いで失ったという経験をしたことで、「人間」という他者への絶望、憤りを感じていた。
そのタイミングで出逢ってしまった鬼舞辻無惨により鬼化するというプロセスを経たため、やはり最期の記憶として「人間への強いマイナスイメージ」が残っていたのではないかと推測できる。
猗窩座における「勝ち負けの基準」は、「戦闘力の優劣」である。
いわば殴り合いをしてどっちが強いか、ということだ。
「生物としての強さ」を比較する場合、当然「生命力」というのは、重要な比較ポイントである。
だが人間には例えば「気持ちの強さ」など、腕力や生命維持能力とは別物の「強さ」という指標もある。
生命力でいえば、砂漠だろうと宇宙空間だろうと生き延びられる「クマムシ」などは、鬼と比べても遜色ない強さだと思うが、猗窩座がクマムシを知っているかというと、それは難しいので仕方がない。
ただ、鬼という生き物がいかに「狭い視野世界の中で生きているか」を推し量るには、最適なセリフであると思われる。
鬼における選民思想
「お前は選ばれし強き者なのだ!」
<出展>吾峠呼世晴/鬼滅の刃8巻・第63話「猗窩座」
これは煉獄杏寿郎に向けられた言葉であるが、裏を返せば「鬼となった自分(猗窩座)自身も選ばれた強き者」だと考えているのだと言える。
猗窩座は、「鬼になりたくてなった」訳では無い。
絶望の中で自暴自棄になり、「何もかもどうでもいい」という失意の中で、たまたま無惨の計画に利用されただけである。
鬼になることで、それまでの人間の記憶がなくなる(少なくとも猗窩座の場合は、まったくなくなっていた)ということは、鬼として生まれ変わった時は、完全にまっさらな状態になっていると考えられる。
言わば、「鬼舞辻無惨の意のままに動く人形」ということだ。
基本原理としては、「人を食って強くなり、邪魔をする鬼殺隊を抹殺し、青い彼岸花や太陽を克服するための方法を探す」というのが、鬼の役目になると思う。
その活動の中で、「上弦の参」という役割を与えられ、女を喰わなくても良いという特権を与えられ、猗窩座はある程度自由に、「自らの強さのための鍛錬」に長い時間を使うことを許された。
彼はこれまでどんな剣士や柱と闘っても負けずに生き残っている訳だから、自らの強さに対しては確固たる自信があるだろう。
しかし、その強さを持ってしても「上弦の参」である。
上には童磨と黒死牟がいる。
とはいえ、猗窩座が「鬼のランキング」というシステムに、それほど感情移入しているとも思えない。
猗窩座の「強さ」に対する欲求は、自分自身が上弦の壱になったとしても、尽きることがないと考えられる。
ナチス・ドイツと鬼の共通点
漫画やアニメの中で、悪役の性質として無意識のうちによく使われる「選民思想」。
ある種族や人種、生物が他の生物(例えば人間)を見下し、自分たちより下等な存在だと貶める卑劣な行為である。
選民思想は、近現代でも、当たり前のように用いられていた。
代表的なのがナチス・ドイツである。
ナチスは人間を見た目や能力などによって、ランク付けした。
金髪で青い目をしたドイツ人の特徴を色濃く受け継ぐアーリア人を「素晴らしい民族」としてピラミッドの最上位に置く。
その他の人間はすべて、アーリア人に付き従うべき存在として位置づけられる。
そして、ユダヤ人やロマ人などのジプシー、障害を持つ人々などを最下層に配置し「生きる価値のない劣った存在」であるとした。
そういった歪んだ思想が生まれた背景には、ドイツという国の弱体化が関係している
当時のドイツは、第一次世界大戦の敗北により、国威を失い、国民は打ちひしがれていた。
そこにさっそうと現れた、現れてしまったのがヒトラーである。
自信を失っていたドイツ人(アーリア人)に対し、「お前たちは素晴らしい、優れた民族なのだ」という意識を巧みに植え付け、現在の苦境の原因として「仮想の敵」を作り上げた。
「自分たちは特別な存在である」という甘美で魅力的な響きは、大衆の心を引きつけた。
ナチスは「社会ダーウィニズム」を用いて、動物世界の「弱肉強食ルール」を人間世界にも持ち込んだ。
彼らは、「優れた民族が生き残り世界を支配し、劣った民族は淘汰される」と宣言し、あらゆる暴力や差別を正当化した。
ヒトラーを鬼舞辻無惨に、ナチス・ドイツを鬼社会に当てはめれば、その異様な構図の共通点とおぞましさがよく見えてくる。
「鬼は優れていて、人間は劣っている。だから人間を殺したり、食ったりすることは当然のことだ」
これが鬼の主張である。
鬼舞辻無惨自身は「鬼の反映」を望んでいる訳ではなく、ただただ「自らが太陽の光を克服し、最強の生物になること」を目指していただけなので、「人類を滅亡させて鬼の世界を作ろう」などとは考えていなかったと思われる。
しかし、自らの目的を効率的に遂行するためには、自分の手足となり「人間を攻撃する役割を持った鬼の集団」を作り上げ、維持する必要があった。
長い寿命を持ち、首を斬られたり、陽の光を浴びなければ死ぬことはない。
人間を遥かに凌駕する力や血鬼術を持っている。
そういった人間に対する優位性が鬼をのさばらせる結果になった訳だが、よくよく考えてみれば、鬼は「日中は出歩けない」という人間が簡単にやってのける行動すらできない「不完全な生き物」なのである。
その点をよくよく考えることもなく「根拠のない自信」と「敵とみなしたものに対する情容赦ない攻撃」が結びつき、「鬼害」ともいうべき厄災をもたらしてしまったのだ。
無惨による精神的支配を受けている猗窩座自身も、この「鬼が優れているという思想」を当たり前のものとして受け入れてしまっていると思われる。
猗窩座にとっての宴とは
「さあ始めようか。宴の時間だ」
<出展>吾峠呼世晴/鬼滅の刃17巻・第147話「小さな歯車」
無限城にて再び対峙した猗窩座と炭治郎。
かつて「弱者」と蔑んだ炭治郎が、剣技を磨き、自らと対等に戦える力を持っていると知った猗窩座は、考えを改め、このように言った。
猗窩座にとって、人間の判断基準は「強いか弱いか」それだけである。
強い者は、自分と戦うという価値を持ち、存在する意義がある。
逆に弱い者は、存在する価値がない抹殺の対象となる。
「宴」とはまさに「強者との試合」だろう。
猗窩座にとって強者と戦うことこそ、鬼として永遠の命を生きる目的であり、唯一の行動原理である。
宴というのは、本来、酒を飲み、歌い踊るような楽しいひとときのことだ。
猗窩座にとっては、強者と死合いをする、殺し合いをすることここそが、唯一にして最大に楽しみなのだろう。
自ら「宴」と称するからには、炭治郎との対決は猗窩座にとって「楽しいもの」であるはずだ。
あれほど毛嫌いしていた炭治郎との闘いを喜ぶということは、それだけ炭治郎自身の能力・強さが飛躍的に向上しているということの証明だろう。
冨岡義勇にして「炭治郎は柱と同等の力がある」という見立ては、間違っていなかったようだ。
炭治郎を「不快」に思う原因
「炭治郎やはりお前は不快だ」
<出展>吾峠呼世晴/鬼滅の刃17巻・第149話「嫌悪感」
弱者への侮蔑を口にする猗窩座を真っ向から否定した炭治郎。
その言葉を聞いて、記憶の奥底にある人影を思い出した猗窩座は、再び炭治郎に対する嫌悪感を顕にする。
人間が鬼になることで、過去の記憶が消去される。
これは正確には「無惨の力によって封印される」ということなのだと考えられる。
そのため、何かのきっかけや強いショックによって、それが蘇ってしまうようなこともあるだろう。
炭治郎の真っ直ぐ過ぎる言葉に、猗窩座は、師匠・素山慶蔵を重ねた。
無惨にとって、鬼の記憶を失わせる理由は、「自分の支配下においてコントロールしやすくするため」であると考えるのが自然だ。
人間であった時の感情・記憶を忘れ、鬼としてまっさらな気持ちで自分への忠誠心のみが存在していた方が都合は良い。
そういった「記憶封印プログラム」の中には、「記憶を取り戻そうとすることに対する忌避感・嫌悪感」を与えるようなものも含まれているかもしれない。
何かの拍子に記憶が戻りそうになると、胸糞悪くなり、それ以上思い出したくなくなる、忘れたくなる。
その思いが炭治郎に対する「不快感」に現れているのではないだろうか。
猗窩座が本当に殺したかったもの
「そうだ俺が殺したかったのは」
<出展>吾峠呼世晴/鬼滅の刃18巻・第156話「ありがとう」
弱者に対する徹底的な嫌悪感を持つ猗窩座が、その理由について思いついた際の一言である。
弱者を蔑み、ひたすらに強者であることを目指した猗窩座。
その原点にあるのは、「弱さへの絶望」であると考えられる。
世の中は弱肉強食の世界だ。
猗窩座=狛治が生きた江戸時代は、現代以上にそれが顕著だっただろう。
身分制度によって縛り付けられ、強者は得をし、弱者は徹底的に搾り取られる世界。
病気の父親と11歳の子どもが二人暮らしで、薬代を得るために子どもが犯罪に手を染めようとも、行政が何か助けてくれる訳でもない。
「社会福祉」などという考え方が皆無の世界で、弱者が生き抜くのは相当に厳しいと言わざるを得ない。
そんな中で、つつましく平凡な幸せを手に入れようとした狛治は、心の弱気者達の蛮行によって妻と義父の命を奪われる。
弱者の不遇、弱者の卑しさ、弱者の無力さに打ちひしがれた狛治は、無限の強さを求め続ける鬼となり、弱者を駆逐することを使命とした。
しかし、彼はようやく気がついた。
運命を呪い、自暴自棄となって鬼となり、悪行の限りを尽くした自分こそ、正真正銘の「弱き者」であると。
狛治は、弱い自分が許せなかった。
父を慶蔵と恋雪を守れなかった自分こそが正真正銘の弱者ではないか。
本当に殺したかったのは、弱い自分自身。
批評家の小浜逸郎氏は著作の中でこのように述べている。
「人間にとって、他者との関係性の喪失ほど、致命的なものはないのである。他者との関係性は、人間が人間であることの必須条件であって、他者との関係性において自分が存在すると確信できることこそは、人間の生きる源泉をなしていると私は思う。
狛治としての人生は、慶蔵と恋雪を失った時点で、もはや終わっていたのだ。
狛治にとって、その後の凶行や無惨による鬼化、猗窩座としての鬼人生は、もはや何の意味も持っていないである。
父の自死により一度は失った「他者との関係性」が、慶蔵そして恋雪との出会いにより、復活する。
再び、「生きる理由」を得た狛治は、持ち前の真面目さと勤勉さで慶蔵の信頼を勝ち取り、恋雪からの深い愛情を得た。
幸せの絶頂に登りつめようとした瞬間の悲劇により、再び「他者との関係性」を失った狛治は、無惨の手に堕ちる。
鬼の世界にも「他者との関係性」はあるのだろうか?
無惨の前に集められた上弦の鬼たちは、一応、人間のようなコミュニケーションをとってはいるが、果たしてそれが「他者との関係」であるのかどうかは疑わしい。
鬼とはいえ、人間のような社会性を持ち、「鬼社会」の中で一定の地位や名誉を得ながら「生活」をしている訳だから、「鬼としてのつながり」はあるのだろう。
ただ、鬼の感情を人間と同じ物差しで測ることはできないと感じる。
彼らの考え方、心の在り方は、やはり人間とは異なる。
無限の生を得て、人を喰らい、思うがままに生きることを望む。
人間社会の倫理観では説明できない部分が、きっと多いに違いない。
猗窩座にとっても、他の鬼との関わりは、人であった頃と同じ「関係性」と呼ぶにはあまりにも乱暴である。
猗窩座は、父もいない、慶蔵もない、恋雪もいないという事実を思い出した時、「他者との関係性」が断ち切らえた自分を感じ、自らその人生を終わらせることを望んだのではないだろうか。
