猗窩座は女を殺さない、食わないを信条とする珍しい鬼
猗窩座は鬼であるが「女を殺さない・食わない」というのを信条にしている珍しい存在である。
鬼は人間を食えば食うほど強くなれる。
しかも童磨曰く、「出産ができる女性は特にエネルギーが豊富」であるらしい。
至高の強さを求める猗窩座が女を食わない理由がない。
この記事では、「なぜ猗窩座は女を殺さない、食わないのか」という謎について考察しつつ、「人間を喰らう」という行為に関して「何が善いのか、悪いのか」という倫理的な考察を深めたいと思う。
猗窩座が女を殺さない・食わない4つの理由 私が考える猗窩座が女を殺さない・食わない理由が以下の4つだ。
①本来の性格
②恋雪の記憶
③鍛錬により強くなることを望む
④童磨に対する反発
では順番に見ていこう。
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
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①本来の性格|優しすぎる男・狛治
猗窩座=狛治は元来、バカがつくほど真面目な人間だ。
真面目であるが故に病気の父親を救う薬代のために何度もスリを犯すという矛盾をはらんだ真面目バカなのだ。
もともとはとても優しい人間なのだろう。
病気の父親の看病を黙ってやる姿、長屋の人々から慕われている雰囲気、慶蔵や恋雪とのやりとりなどを見ても、狛治が「悪いやつ」だとは思えない。
犯罪を犯して金を欲するなら、スリというのは割の合わない仕事だ。
一気に大金を手に入れたければ、空き巣なり、強盗なり、やり方はいくらでもある。
そういった犯罪の中でも、「相手を傷つけることなく小銭を手に入れる」手段としてスリを選んだのであれば、それはやはり狛治らしい。
狛治自身はそもそも「女を殺すどころか、人を傷つけることも好まない」のである。
そういった本来の性格が、記憶をなくして鬼=猗窩座になった後でも、その行動に影響を与えていたと思われる。
②恋雪の記憶|女性=守るべき弱き者
「女性への優しさ」という点を考えれば、妻である恋雪の影響は計り知れないだろう。
猗窩座=狛治が生前、唯一愛した女が恋雪である。
狛治の母親の描写はないが、父親と二人暮らしであることを鑑みれば、早い時期に別離していたと考えるのが妥当だろう。
狛治は、恋雪を「女性だから」という視点で特別視していない。
どちらかといえば、病気の父親と同じ「弱者=守るべきもの」であることが、大きいと考えられる。
女性との接点が恋雪しかなかった狛治=猗窩座にとっては、「女性=弱いもの=守るべきもの」とい固定概念が染み付いていたのではないだろうか。
猗窩座は知っての通り、その風貌や技などに、恋雪との思い出がにじみ出てしまうほど、彼女に対して特別な想いを持っている。
弱い存在である女性を食うということは、猗窩座にとって記憶に底からにじみ出る禁忌だったのかもしれない。
③鍛錬により強くなることを望む
猗窩座は、武道家としての一面が強い鬼である。
何でも良いから殺してしまえ、食ってしまえという「鬼のノリ」が通用しない、鬼としては扱いづらい仲間だったはずだ。
猗窩座は、狛治時代に素流道場にて鍛錬を行った記憶が、心の底に眠っているはずだ。
これは推測だが、狛治にとって、素流道場での暮らしや稽古は、「とても楽しいものだった」のではないかと感じる。
病気の父親のためにスリを働き、奉行所で体罰を受け続けるという希望のない日々に比べれば、裕福ではなくても、一緒に暮らす家族がいて、守るべき存在がいて、自分に強き心と技を授けてくれる父代わりに師匠がいる。
これが狛治にとってどれだけ幸せで、心強かったかは、明白だろう。
狛治自身は、「あまりにも我慢強い」ので、それほどこの有り難みを心の底から享受するということはなかったかもしれないが、数少ない幸せな思い出だったことは間違いない。
その師匠である慶蔵の教えは、狛治=猗窩座にとって絶対であるはず。
人間や女を食べて、ある種ドーピングのような形で強くなるのではなく、自身の限界を超える鍛錬と、強い相手との死闘を繰り返して強くなる。
そういった「正しき武道の道のり」を猗窩座は欲したのではないだろうか。
④童磨に対する反発|女好きに対する嫌悪感
猗窩座の天敵は、杏寿郎でも炭治郎でもなく、実は童磨だったのかもしれない。
元来の嘘つきで、新興宗教の教祖。
頭は良いが、人たらしの女好きで、へらへら笑ってはいるが性格は残忍。
この性格分析を見ただけでも、猗窩座と気が合うとは思えない。
説教的に女を好んで食べる童磨は、猗窩座にとって理解しがたい存在だったのかもしれない。
「童磨が食うなら、俺は食わない」
頑固な猗窩座であれば、そこまで意固地に考えたとしてもおかしくはない。
猗窩座は女を殺さないが、そもそも人間を食うことは悪いことなのか?
鬼滅の刃に関わらず「人間を食う」物語は多々ある。
人間が人間を食うとは、どういうことなのか。
それは本当に悪いことなのか。
「東京喰種・トーキョーグール(石田スイ・ヤングジャンプコミックス)」では、鬼滅の刃同様、「人を喰らわなければ生きられない」種族である喰種(グール)が登場する。
喰種にも多種多様な性質を持つものが降り、「美食家(グルメ)」月山習のように、特定の人間を食うことに対して、強い執着を持つものがいる。
また、「大喰い」の神代利世など、女性ばかりを狙う喰種もいる。
「寄生獣(岩明均 ・アフタヌーンコミックス)」のおいても、地球に飛来した未知の寄生生物が、「人間を食料」として食べる様子が描かれる。
彼らにとって、人を食うということは、人類が牛や豚、鶏を食べるのと同じ感覚なのだろう。
人間の目から見れば、それは残虐な殺人行為だが、彼らにとってみれば「単なる食事」なのである。
「ダーウィン事変(うめざわしゅん・アフタヌーンコミックス)」では、「食肉文化」がクローズアップされ、ALA(動物解放同盟)という動物開放を掲げた テロ組織が、食肉産業や実験動物に対して広義をしつつ、過激なテロ活動を行っていく。
「BEASTARS(板垣巴留・少年チャンピオンコミックス)」は、少し毛色の違うファンタジーだ。
擬人化された動物たちが暮らす世界。
そこでは、食う側の肉食獣と、食べられる側の草食獣が「ある一定のルール」の元、表面上は仲良く暮らしている。
食うものと食われるものが、同級生として、仲良くおしゃべりをしている様子は、とてもシュールだ。
BEASTARSでは、捕食者であるハイイロオオカミのレゴシが、ドワーフウサギのハルに恋をする。
この二人の間に愛は成立するのかという、極めて面白くかつ刺激的な「倫理的極限恋愛」が描かれるのだ。
<h3>鬼が種の存続のために人を食うのは悪と言えるのか
例えば、自ら進んで鬼となり、人を食らって楽しく生きるという鬼がいたとすれば、「炭治郎さん、斬っちゃってください」と言いたくなる。
だが、禰豆子のように「鬼になんてなりたくないけれど、なってしまった。鬼として生きるには、人を食わねばならない」という状況だったら、「それでも人を食うのは悪いことだから、お前は餓死して死ね」と言えるだろうか?
生きるために人を食うという行為は、人が「食肉を楽しむ」ために、豚や牛や鶏を育てて、と殺することと何が違うのか。
猗窩座には、鬼滅の刃全編を通して「人を喰らうシーン」が存在しない。
確かに、猗窩座には人食いは似合わないし、ファンもその姿を見たいとは思わないだろう。
猗窩座にとって「鬼」は「永遠に強さを求めて戦える存在」でしかない。
鬼として「強きものと闘い、より強くなること」以外の目的を持ち合わせていないのだ。
そこに「強さへの執着」は強くあれど「生きることへの執着」は薄い。
女を食わない猗窩座の想いは、そういうところにあるだと考える。
