猗窩座死亡シーンに見る「心が折れる」ということの絶望
無限城における猗窩座の最後は、あまりにも儚く、狛治時代の不遇もあって、泣けるエピソードとして鬼滅ファンの涙を誘った。
猗窩座は鬼として無惨の支配下に生きる自分と、狛治という一人の人間として死ぬ自分との間で揺れ動いた。
猗窩座死亡シーンにおける「悪役の散り際の美学」について、考察を深めたいと思う。
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
無限城編での猗窩座との死闘をもう一度、その目に焼き付けよう!
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鬼は生物として完成された領域にある
鬼舞辻無惨の目的は、「太陽の光を克服して、鬼として完全な生命体になること」である。
彼も数百年の間に様々な研究を行い「鬼」という存在について、知識を深めていったことだろう。
その中で、すでに「首を斬られても死なない」ようにするための対策はある程度出来上がりつつあった。
猗窩座にしても、炭治郎らとの闘いの中で覚醒し、「斬られた首を再生する」というこれまでにはなかった能力を獲得している。
この時点で鬼は「生物としてほぼ完成された状態にある」と言っても良いだろう。
「日光の下では生きられない」のであれば、夜行性の生き物として活動すればよいだけの話。
そこだけ我慢をすれば、鬼舞辻無惨が世界を意のままに操ることも難しくはないだろう。
首を再生させられるという異能
鬼殺隊士は「呼吸」を発明し、鬼の生命力や血鬼術に対抗する術を生み出した。
さらに、特別な能力を持つ「痣者」の発言によって、鬼を凌駕する力を出すものも現れる。
鬼舞辻無惨や黒死牟をぎりぎりまで追い込んだ継国緑壱のような傑出した能力を持つ者が「生まれてしまう」ことは、鬼たちにとっても看過できない
状況だったと推測できる。
進化というのは、競争であり、いたちごっこだ。
一方が能力を高めれば、もう一方もそれに対抗するように変化する。
その顕著な変化の一つが、「首の再生」だったと考えられる。
猗窩座は上弦の参であり、長きにわたる鍛錬の結果、強靱な肉体と技を習得した。
さらに彼の特徴は、肉体的な優位性と同時に、狛治時代から続く「困難をものともしない強靱な精神力」を持っていたということだ
肉体を保っているのは心=精神である
いくら強靱な肉体と相手をひれ伏す技があっても、心が伴わなければ勝負に勝つことはできない。
竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の3人が良い例である。
竈門炭治郎の強みは、なんといっても「強い精神力」だ。
どんな逆境にも屈することなく、自らを励まし、他者への慈愛も忘れない。
良い子過ぎて、もはや非の打ち所がない。
世のサラリーマンたちにとってみれば「部下にしたい社員No.1」であることは間違いないだろう。
肉体的な限界を超え、絶望に取り込まれそうになるような死闘においても、彼は「心を燃やせ」「前を向け」と自らを鼓舞し、闘い続ける。
そういった過酷な状況にありながらも、敵である鬼に対してさえ、悲しみや痛みに寄り添う「人としての優しさ」を失わない。
自己を律する心の強さと、誰に対しても同じように発揮される大きな包容力。
この二つを併せ持つ、まさに「鬼のような精神力」の持ち主なのである。
対して、我妻善逸は「ゴミ精神力」の持ち主。
すぐ怖がる、すぐ逃げる、超マイナス思考という炭治郎の真逆を生きる男である。
だが、例え一つとはいえ、誰もなし得ない超神速の必殺技を持つとい点は、特筆すべき才能だ。
問題は、それを「意識を失っているときしか発揮できない」ということだろう。
我妻善逸は、「弱い心・弱い精神」と自らを切り離した時に、実力を発揮するという珍しいタイプの人間なのだ。
また嘴平伊之助は、こちらはこちらで「鬼メンタル」の持ち主である。
超絶ポジティブ思考、というか、「仔細を気にしない性格」であるが故に、恐れない。
猪の頭をかぶっている通り、「猪突猛進」ですべてを解決しようとする。
彼を動かしているのは「野生の勘」だ。
考えて動くのではなく、「感じて動く」を実践している。
どちらかというと「心を経由する前に筋肉を動かす」タイプ。
童磨との闘いでは、思い切り心をかき乱されてはいたが、持ち前の野性味を存分に発揮し、危機を脱している。
心が「人間・狛治の戻ったこと」が猗窩座敗北の要因
猗窩座の心が鬼のままであったらなら、猗窩座最後の死亡シーンは成立しなかった。
炭治郎との闘いの中で見事に首を斬られ、己の生きてきた忌まわしい過去を思い返し、自分こそが「殺してやりたいほど憎んでいる弱いやつ」であることを思い出した。
猗窩座は闘いの中で「人の心」を取り戻したのである。
鬼こそ最強、永遠の命最高!と思えるのは、猗窩座が「鬼」だからである。
人間・狛治は、決してそのようなことを考えない。
猗窩座の中で急速に膨れ上がる「狛治の心」は、すべての記憶を思い出し、最終的に「炭治郎への感謝」という感情に結実する。
猗窩座が、自らの体に必殺拳を打ち込んで自死しようとする前に見せた「微笑み」は、「猗窩座の笑み」ではなく「狛治の笑み」だったのである。
狛治へと戻った猗窩座の心に、無惨の呪いは届かない。
恋雪の「おかえりなさい」を心の底から望んでいた狛治の魂はついに浄化され、無へと還ったのである。
猗窩座が消え去る瞬間のことを童磨はこのように表現している。
あれ?猗窩座殿もしかして死んじゃった?
一瞬変な気配になったけど気のせいだよね
猗窩座殿が何か別の生き物になるような…鬼滅の刃18巻・第157話「舞い戻る魂」
童磨の言う「別の生き物」というのが、鬼ではなく「人間」なのだと推察する。
猗窩座は、鬼ではなく「人として」死んだ。
どの鬼も、鬼狩りに敗れた無念や現世への恨み言をつぶやきながら、苦しみのうちに消えていくというのが常ではあるが、猗窩座=狛治が心穏やかに往生できたのは、せめても救いである。
悪役らしい散り方は、「最後まで無様に足掻くこと」
とはいえ、狛治の散り様はあまりにも見事で、悪役という感じがしない。
その点も「猗窩座人気」の要因の一つだろう。
猗窩座は「狛治」というよく出来た人間をベースにしていたので、やはり鬼としてグレてしまっても、最終的には「善い人」で終わることになる。
それに引き換え、鬼舞辻無惨や他の下級鬼は、やはり鬼としての生に執着し、最後まで対戦した鬼狩りや足を引っ張りあった仲間を恨んで死んでいく。
ただ「悪役の死に際」とは、そういうもので「善い」のだろう。
悪は、いつまで経っても悪である。
死の間際になって、誰も彼もが改心してしまうのであれば、「じゃあ、最初からまっとうに生きろや」と思わざるを得ない。
「悪役は最後まで悪」
この方が、読者としてもすっきり「悪」を切り捨てられる。
私的No.1は、ガッツ(ベルセルク)。不屈の精神力がありすぎるマンガキャラ
ファンタジーマンガの金字塔ベルセルクの主人公・ガッツ。
この男ほど、「不屈の精神力」が似合うマンガキャラクターを私は知らない。
生まれた時から過酷な運命を背負い、信じていた仲間に裏切られ、愛する者や片目、片腕も失うという「想像を絶する絶望」を味わいながらも、立ち上がる姿は、もはや「鬼」である。
常人なら精神崩壊してもおかしくない状況で、彼は、燃えたぎる復讐心と「生への執念」によって、闘い続ける。
人ならざる魔物や神という圧倒的な存在を前にしても、絶対に立ち止まることなく剣を振るう姿は、彼の持つ大剣に相応しい鉄のメンタルを現している。
悪役における散り際の美学なら、ラオウ(北斗の拳)に勝る者なし
マンガ「北斗の拳」における世紀末覇王ラオウが口にした、「わが生涯に一片の悔いなし!!」という名セリフ。
一度は口走ってみたいけど、そんな機会ない!と思っているマンガファンは多いことだろう。
破滅した世界にあって、恐怖による世界制服を目指した、「拳王」として君臨しようとしたラオウ。
まさに、自分勝手が過ぎる悪役大魔王なのだが、敗北を悟った後の潔さは、特筆に値する。
彼もまた猗窩座と同様に、「自死」とも思える最後を迎えたラオウ。
悪逆を尽くし、誰に屈することもなく、自分の悪役人生を「これで善し」と肯定しきって逝ってしまう姿は、まさに「悪役の美学の極み」とも言える、壮絶な最後だったと言える。
