猗窩座VS煉獄杏寿郎という鬼と柱における絶大な人気キャラクターの対決は、鬼滅の刃8巻というかなり早い段階で実現する。
結果は、皆さんご存知の通り「猗窩座の逃げ勝ち」であり、鬼との最終決戦を前に、煉獄杏寿郎は非業の死を遂げる。
鬼滅の刃前半の大クライマックスともいうべき猗窩座VS煉獄杏寿郎というビッグマッチにおいて、なぜ「猗窩座」が勝利を収めたのか。
そして2人の間にある「絶対的な価値基準の違い」とは何なのか。
掘り下げて考察してみたい。
当記事は、作品の感想を主体とした独自の考察を元に構成されていますが、一部ストーリーの展開が読み取れる「ネタバレ」部分も存在します。
作品未読の方は、十分ご注意ください。
無限城編での猗窩座との死闘をもう一度、その目に焼き付けよう!
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猗窩座が煉獄杏寿郎に勝利できた4つの理由
猗窩座と煉獄杏寿郎の決定的な実力差
黒死牟や童磨、半天狗、堕姫・妓夫太郎など、上弦の鬼と闘った鬼殺隊は基本的に柱+炭治郎たち下級隊士による総力戦だった。
それだけ、夜に戦う上弦の月の力は圧倒的ということだろう。
上弦と1対1で闘ったのは、玉壺を倒した時透無一郎、獪岳を切った我妻善逸、そして猗窩座とやりあった煉獄杏寿郎など数少ない。
無限城編では、柱と隊士が協力しての連携攻撃、胡蝶しのぶらが作った毒の力などを駆使して、上弦の鬼を次々と撃破していったが、その裏には「壮絶な柱稽古」というパワーアップ期間が存在していたことを忘れてはならない。
迫りくる鬼舞辻無惨との最終決戦に向けて、柱自身、そして各鬼殺隊士の能力を高めるために企画された柱稽古。
炭治郎たちも各柱の元を巡って、能力アップに努めたのだが、その修行の中で「柱もかなりの成長を遂げた」と考えられる。
その結果、多くの柱が「痣者」として覚醒し、異なる呼吸の使い手ながらも高速で連携攻撃をしかけられるまでになった。
柱稽古しといてよかったなあ、悲鳴嶼さんよお。
鬼滅の刃20巻・第170話「不動の柱」
という不死川実弥の言葉にも、その手応えが現れている。
煉獄杏寿郎にとって残念だったのは、この「柱稽古」以前に猗窩座と対戦してしまったことだ。
煉獄杏寿郎も、かなりの腕前を持つ剣士だったが、それでもこの「無限列車」事件の時点では、猗窩座とは決定的な実力差があった。
これはいかんともしがたい事実である。
もし、煉獄杏寿郎が柱稽古を終えた後、無限城で猗窩座と対戦していれば、戦況は少々違っていた可能性もある。
現場にもう一人、柱がいなかった不運
前述した通り、上弦の鬼を倒すには、複数の柱、もしくは柱と同様の力量を持つ剣士が必要になる。
偶然にも無限列車に乗り合わせた煉獄杏寿郎と炭治郎達が、鬼討伐の任務にあたった訳だが、もちろん、闘いの後になって上弦の参が現れるなどと、誰も予想していない。
例えば、鬼殺隊が警察官のように二人一組のバディ制を取っていれば、必ず2人の柱で苦戦が予想される強い鬼の討伐に当たるというルールが出来ていたかも知れない。
あの場に、甘露寺蜜璃や冨岡義勇など、もう一人柱がいてくれたら、結果は大きく変わっていただろう。
猗窩座が襲来したのは夜明け前に近く、事実、猗窩座は闘いが長引いてしまったために、危うく太陽の光に焼かれるところだった。
猗窩座を倒すことはできないにしても、柱2人のコンビネーションで戦えれば、日の出のタイミリミットまで戦闘を引き延ばせた可能性もある。
不意打ちの格好になった猗窩座の襲来は、武人としてはいささか卑怯にも思えるが、「柱討伐」を目的とするなら最高のタイミングだったと言えるだろう。
煉獄杏寿郎に蓄積していたダメージ
煉獄杏寿郎は柱の中でも強靭な精神力と剣技を持った優れた剣士だったが、残念ながら疲れていた。
無限列車内で夜通し闘ったのだから、いくら柱とはいえ相当に疲労していただろう。
「やれやれ、とりあえず一件落着か。藤の家で飯でも食って、風呂に入って帰ろうかなあ」などと思っていた矢先に、空から上弦の参ドーンである。
「マジですか?」と嫌な顔の一つもしたいところだが、表情一つ変えずに戦闘を続行した煉獄杏寿郎は男らしいと言わざるを得ないだろう。
だが、同時に自らの命を粗末にしてしまったとも言える。
万全な状態でも勝てるかどうか分からない上弦の鬼に、満身創痍の状況で立ち向かうことが果たして「勇気」と言えるだろうか。
それは誰が見ても「無謀」である。
柱という重責を担うものが一人欠けたら、どのような影響があるか。
考えつかない煉獄杏寿郎ではないだろう。
彼には「闘いを回避して逃げる」という選択肢もあったのだ、だがそれをしなかった。
正確には「できなかった」のだ。
④炭治郎・伊之助という「守るべき者」の存在
煉獄杏寿郎が「猗窩座から逃げる」という選択肢を選べなかったのは、鬼殺隊として柱として「その責務を全うする」という使命感ももちろんあっただろう。
それに加えて、炭治郎や伊之助、善逸、列車の中の人々を置いてはいけない、というどうにもならない状況もあった。
俺は俺の責務を全うする。
ここにいる者は誰も死なせない。
鬼滅の刃8巻・第66話「猗窩座」
猗窩座の攻撃によって深手を負いながら、不屈の精神力で剣をふるう煉獄杏寿郎。
彼はこの時点で相打ちを覚悟している可能性はある。
自分が死んだとしても、他の者は守り抜く。
その一心で奥義を放つものの、蓄積されたダメージは大きく、煉獄杏寿郎は致命傷を負う。
彼の行動は一見無謀ではあるが、「日の出の時間」を計算した上で、「それまでの時間を稼ぐ」ために闘っていたとすれば、それは間違いなく「他者を守るための自己犠牲」であっただろう。
煉獄杏寿郎は、柱として、どうしても猗窩座と戦わなければならない運命だった。
こうして仔細に考察してみると、煉獄杏寿郎には不運な部分が多い。
ここで猗窩座に出会わなければ、彼はさらにその剣で、多くの鬼を滅し、多くの人を救っただろう。
ただその死が、炭治郎たちに与えた影響も少なくない。
死してなお輝きを放つ。
まさに煉獄杏寿郎は、炎柱に相応しい男であったと、改めて思うのである。
猗窩座と煉獄杏寿郎の絶対に埋まることのない価値基準の違い
君と俺とでは価値基準が違う。
俺は如何なる理由があろうとも鬼にはならない。
鬼滅の刃8巻・第66話「猗窩座」
煉獄杏寿郎は、猗窩座のしつこい勧誘にもこのよう言い返し、鬼になることを断固拒否した。
彼らの言う「価値基準」とは一体何なのか。
鬼なれと誘う猗窩座、絶対にならないと拒否する煉獄
猗窩座は強い者に出会うと、「鬼になれ」と勧誘する。
その理由は、永遠の命を得て、
百年でも二百年でも鍛錬し続けられる
強く慣れる
鬼滅の刃8巻・第66話「猗窩座」
からだ。
強さへの渇望、それこそが猗窩座が「鬼化」を勧める最大の理由である。
老いることも死ぬことも
人間という儚い生き物の美しさだ
鬼滅の刃8巻・第66話「猗窩座」
煉獄杏寿郎は、「至高の強さ」など求めてはいない。
彼にとって価値があるのは「鬼を斬る、人々を守る」ということである。
闘いの中で死ぬことは、あって然るべき当然の出来事であり、彼の中で「相応の覚悟」はもう出来ているのだろう。
そこは、最愛の母はもちろん、これまで散っていった仲間の剣士など、数多の死を経験し、くぐり抜けてきたからこそたどりついた境地なのだろう。
老いることと死ぬこと、人間であることの価値
ここで哲学者たちの言葉を見てみよう。
ドイツの哲学者ハイデガーは、人間を「死への存在」であると定義した。
彼は、死を必ずしも忌むべきものではなく、「人間が自分らしく生きていくためのスイッチ」だと考えたのだ。
人間は、自分がいつか必ず死ぬという有限性を自覚した瞬間、初めて他人の真似ではない「本当の自分」という生き方を選び取ることができる。
人間の人生は有限であるからこそ、「自分に残された時間で何をするべきか」を真剣に考え、自分の人生ならではの価値を与えることができる、と述べている。
満身創痍の状態で、猗窩座と対峙した煉獄杏寿郎は、まさにこの境地に置かれていたことだろう。
哲学者ハンス・ヨナスは、医学や科学技術の進歩により「不老不死」が現実味を帯びるような現代において、あえて「死の必要性」を説いた。
もし人間が死なないのならば、新しい命が生まれる理由も、次の世代へ世界をつなぐ責任も失われてしまう。
死があるからこそ、人間は自らの限界を知り、他者を愛し、未来に対して責任を持つことができる。
自らが永遠の時間を持つ鬼たちは、他者に何かを受け継ぐなどという感覚は持ち合わせていないだろう。
彼らは長く永遠の命を持っている代わりに、輝かしい未来も失ってしまっているのだ。
煉獄杏寿郎は、「未来へつなぐこと」の重要性を理解している。
鬼殺隊としての役目、人間としての生き様、すべてをかけて「明るい未来を生み出す」ための努力を、今この瞬間行っているのだ。
若くして亡くなった最愛の母との思い出。
煉獄杏寿郎は「人は死ぬこと」を当たり前のことと受け入れ、今、生きるものとして何をすべきかを常に考えてきた人間なのだ。
「不死」の鬼と「有限の生」を生きる人間。
お互いがそれぞれの思想にこそ価値があると断言している状況では、相互理解などできるはずもない。
守るべき者の喪失という呪縛から逃れられない猗窩座
猗窩座の弱さは、人間時代に由来する。
彼は「守るべき者を守れなかった」という呪縛に縛られた鬼なのだ。
病の父親、義父になるはずだった師匠、最愛の妻。
猗窩座=狛治が守らなければならなかった人々は、ことごとく死んでしまう。
そのような不運とも思える人生を歩んでしまったが故に
どう足掻いても人間では鬼に勝てない
鬼滅の刃8巻・第65話「上弦の力・柱の力」
という「人間批判」に繋がってしまうのだろう。
実際、猗窩座は「鬼こそが最高!」とは思っていないはずだ。
それは鬼舞辻無惨の呪いによって形作られた思考であって、猗窩座=狛治本来の考えは、鬼云々ではなく「守ることができない弱い人間=自分」への憎悪こそが最も重くのしかかっている状況なのだ。
「鬼にならないか?」という勧誘は、そのすり替え行為でしかない。
母からの言葉や思い出を力に変えた杏寿郎
満身創痍の状況で、猗窩座を最後まで苦しめた煉獄杏寿郎。
彼の活動の源泉は、やはり最愛の母の言葉である。
「弱き人を助けること」(鬼滅の刃8巻・第65話「上弦の力・柱の力」)という、母の言葉を胸に、彼は死力を尽くして闘った。
死者の残した言葉は、ある意味残酷である。
残された者にとって、その言葉は「絶対」であり、もう二度と「変わることがない」のである。
彼の母が生きていれば「もうあなたは頑張りました。ゆっくり休んで良いのですよ」という言葉をかけてもらえたかもしれないが、もうその可能性はない。
煉獄杏寿郎は、亡き母の期待に応えるために、死ぬまで闘い続けなければならない。
ただ、彼にとってそれが重荷であるかというと、そうではなかった。
煉獄杏寿郎にとって、母の教えは生きる指針、柱として進むべき道を教えてくれる「羅針盤」である。
母の言葉に、期待に応えたい。
その想いが結実した煉獄杏寿郎のラストシーン。
「立派にできましたよ」(鬼滅の刃8巻・第66話「黎明に散る」)
という母の言葉に、満面の笑顔で逝った杏寿郎。
炎柱・煉獄杏寿郎という人材を失ったのは、人類にとっても鬼殺隊にとっても大きな痛手ではあったが、彼の死に際が安らかであったことが、せめてもの救いである。
